日本特有の英語表記法として長い歴史を持つ「カタカナ英語」。
英単語を日本人に覚えさせるうえで非常に便利に使われてきた反面、「英語ネイティブの発音とはかけ離れた発音が身についてしまい、結果として会話では通じない英語が身についてしまう」という問題も昔から指摘されてきました。
私は30代になってから英語を真剣に学び直したので、英語とカタカナ英語の関連には並々ならぬ関心を持っています。
今回の記事では、最近気になる「ベット」や「バック」といったカタカナ英語について私見を述べたいと思います。
とっても気になる「ベット」や「バック」
私が近年、すごく気になっている単語たち、それは、
- 「bag」を「バック」と発音したり
- 「bed」を「ベット」と発音する
こういう風潮のことです。驚くべきことに最近では話し言葉のみならず、書き言葉においても
「シンプルで普段使いにもってこいの2Wayショルダーバック」
などという使われ方をしています。
英語の発音に寄せるなら本来は、
- 「bag」は「バッグ」
- 「bed」は「ベッド」
ですよね。
誤解いただきたくないのですが、私は決してこの現象について「言葉が乱れている!けしからん!」とか「正しい言葉を話すよう訴えかけていきたい」などと、冗談に振りかぶって息巻いているわけでは決してありません。言語に興味を持つものとして、非常に興味深くこの現象の背景を考察している、というスタンスなのです。
私は音声学とか言語学とかの専門家でもなんでもない素人なわけですが、素人なりに考えてみると、「バッグ」や「ベッド」は少々、筋肉の動員を余計に必要とすると感じます。いっぽう「バック」や「ベット」は比較的、筋肉の動きを意識する必要性をそれほど必要としません。
つまりは「省力発音」ということかな。最近流行りの「コスパ志向」の現れでしょうかね。
他にも、以下のような要因があると私は考えています。なお、以後この記事では「ベット」や「バック」について近年見られる発音に関する現象のことを「ベット・バック現象」と表します。
1.英語発音に忠実な発音をすることへの諦念
これはおそらく言語学の分野なのでしょうが、日本語は音節構造が英語と大きく異なるため、英語の正確な発音が困難とされています。特に、「ベット」「バック」のような音は、日本語の音韻体系では馴染みのある形だと感じます。
日本人にとって「英語ネイティブの発音」が集団の中でどう評価されるかは、長きにわたって非常に重要な問題として受け止められてきたと思います。学校の英語の授業で英語ネイティブっぽく発音する人が揶揄されからかいの対象になったり、あるいは逆に会社で英語ネイティブ発音をする人が羨望の眼差しを向けられたり。
日本の文化においては「英語ネイティブ発音」の受け止められ方は、個人が所属する集団の種類によって180度変わるといっても過言ではありません。
私は「ベット・バック現象」の背景の一つとして、「ネイティブ発音への諦念と反発」があるのではないかと考えます。つまりそれは「諦め」と「抵抗」の表明だということです。
- 「英語ネイティブ発音が、あるところでは揶揄されて嘲笑の対象になるし、あるところでは賛美される」
- 「そういうのって、もう面倒くさい」
と考える人が増えているのではないか、ということです。その表明の手段として新たな発音が生み出されたのではないでしょうか。
2.欧米文化賛美やグローバリズムへの否定と反発
「ベット・バック現象」の次の要因として、長らく日本で支配的だった「欧米文化至上主義」の否定や、ここ40年ほど猛威を振るってきたグローバリズムへの抵抗が背景にあると私は考えます。
「もう欧米賛美はたくさんだ」「日本人は日本人らしくていい」と考える人が増えているのではないか、ということ。
言い換えれば民族主義、ナショナリズムが強まっていると判断する材料の一つになる、ということです。
3.若者世代による従来の教育観への反発
若い世代が既存の教育や社会的価値観に反発する傾向があるのは、時代を問わない現象です。SNSやポップカルチャーの影響で、言葉の使い方や発音が「自由であるべき」という価値観が広がりつつあります。言語においても個人主義が台頭してきているということです。
4.コスパ至上主義
現代人はとかくコスパ至上主義の圧力にさらされています。コスパを考えず行動したことで責任を問われたり、最悪の場合「無能」の烙印を押されかねない社会です。こうしたコスパ至上主義の延長として、英語の発音を「日本的に簡略化」することが合理的であるという認識が広まっている可能性があります。
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