現代の日本は(というか世界的に)、「エビデンス偏重社会」だと思うんですよね。
エビデンスや再現性にこだわりすぎて、
- 本質
- 価値を生み出す実体
- どうすれば幸福になれるか
といった、本当に大切なものが捨てられている。そんな状態だと私は思っています。
たとえば筋トレの話題でいえば、「こうしたら筋肥大の面で効果があったと感じた」という情報を誰かが発信したとします。その発信に対して、
- 「それってエビデンスは?」
- 「論文はあるの?」
- 「再現性はあるの?」
などの批判を浴びせ、これらが薄弱、あるいは「ない」となると「じゃああなたの情報には価値がない」と切り捨ててしまうようなことが起こりがちです。
この傾向が強まると、言語化や論理的思考が苦手な人や、論文にアクセスできない人などが情報発信を控えるようになります。それは、間接的な排除が行われるということです。
これは、記録されたすべての情報がデジタルデータとして分析可能なインターネットの世界では特に顕著に見られる傾向です。SNSなどのサービス運営側の利益向上という観点からしても、再現性の高い情報を発信する人が重宝されやすいというのも背景にあります。
でも、エビデンスや再現性が薄弱な情報を「価値がない」として切り捨ててしまうことって、すごくもったいないと思うんですよね。
エビデンスや再現性が薄弱な情報であっても、それを目にした人のモチベーションが高まったり、あるいは生きづらさを感じている個人の苦しみを軽減したり、そういった「デジタルで測れない価値」も間違いなく存在しているわけですからね。
誤解して頂きたくないのですが、私は、エビデンス重視が「黒白」で悪いなどというつもりは毛頭ありません。要はバランスの問題なのです。
現代社会がエビデンス偏重に偏りすぎている背景には、過去から現在に至るまで、きわめていい加減な、最悪の場合は消費者を害するような、そんな有害な情報を流布することで利益を得ようとする悪意を持った人々の存在があります。
そうした悪意によって多くの人々がだまされ、苦しめられてきたことは目を背けてはならない事実です。
そうした失敗を繰り返さないために、今の社会はエビデンス偏重に偏っているのだと私は理解しています。繰り返しますが、エビデンス重視も体験重視も、どちらが正しいという黒白の考え方ではなく、大切なのはそれらのバランスを取るということなのです。
さて2025年度の抱負としては、私はエビデンス重視に偏りすぎている社会を、微力ながら体験重視の方向に引き戻す手助けができればと考えています。
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