今回の記事では、日本の天皇について私の意見を述べたいと思います。
この記事を書くきっかけとなったのは、私が長くウォッチしている美容外科医・経営者であり、医師系YouTuberとしてトップクラスのチャンネル登録者数を持つ「高須幹弥」氏の動画でした。
インフルエンサー(情報発信者)高須氏は、氏の専門である美容外科医療の話題にとどまらず、さまざまな難しい社会問題についてもわかりやすく言語化して解説してくれるありがたい方。かつ、ご自身の意見をハッキリと表明される点も私的には好印象で、おまけに私と同じく筋トレをこよなく愛する同好の士なわけです。お目にかかったことはありませんが。
そんなわけで私は高須氏の発信を長きにわたってウォッチしているというわけです。
さてそんな高須氏が天皇について述べたことで動画のコメント欄が炎上したというYouTube動画はこちら。2024/12/15に公開されたものです。
主にリベラルと思われる人々からの「天皇を崇拝していない人の気持ちにも配慮すべきた」といった批判が多く寄せられたようです。
以下は同動画のコメント欄の炎上を受けて2024/12/16に公開されたものです。
天皇について私の思い
まずはじめに、私の天皇への思いを述べる前に、私個人のバックグラウンドを簡潔に紹介しておきたいと思います。私の家系は公的書類をさかのぼって確認できる限り、江戸時代末期から続く日本人の家系です。父方は農民の家系、父方は漁師の家系です。
自分自身を「純粋な日本人」などと表現することについて、いささか選民思想じみて響くことは否めませんが、そのような意図はありません。ただ一般的に私は純粋に日本人であるといっていいかと思います。
そんな私ですが、積極的な天皇崇敬者ではありませんし、逆に積極的に「天皇制」を廃止すべきという意見の持ち主でもありません。
その理由ですが、言語化するには複雑すぎるほどの様々な経験を経た後、私は、自分のルーツは日本の天皇の祖先であるヤマト王権によって征服された側の人々である、という認識に至りました。
- 「はぁ?意味わからん。その根拠は?」
- 「なにか証拠はあるの?」
などの疑問を持つ方も少なくないでしょうが、先にも述べた通り、これは論理的に言語化するのは不可能な事柄なのです。もう少し丁寧に言えば、言語化した途端にそれは私の中の真実とは全く異質なものになってしまう、とでも言えるでしょうか。
「なんだ。怪しげなスピリチュアルか」とか「なんかの宗教ですか?」と思われる方がおられれば、そのように認識されても構いません。くどいようですが、これは言語化することが困難な個人的な体験にかかわることがらなので、私はこれについて訂正や釈明をしようとは思いません。不毛ですので。
ただ私は、私自身のこの認識は、一般的に「スピリチュアル」に分類される概念とは違うものだと感じていますし、さらにいえば私はいかなる既存宗教の信者でもありません。
さておき、こうしたおそらく一般的な日本人とはおそらくかなり異なったアイデンティティを持っている私にとって、この日本で1500年にわたって受け継がれてきた天皇家とは「征服者」「勝者」の歴史であるという認識になります。いっぽう私はというと、敗者のルーツをアイデンティティとして持っているわけです。
つまり天皇の歴史は、私の先祖である民族を征服して王朝を築いた人たちの歴史、ということになりますが、だからといって私に「怨嗟」だとか「復讐心」のような感情は微塵もありません。
あくまでも、一般的な日本人の感情、天皇に無条件の尊崇の念を抱き、ときには同質化する、そんな人達の思いとは異なり、私は数多くの人類の歴史の1ページとして天皇とそのルーツをドライに捉えている、というのが最も適切に私の思いを表した表現かと思います。
日本に天皇は必要だという意見には賛成
さてこのように天皇に対してある種、距離を保った認識をしている私ですが、日本に天皇が必要だという高須氏の意見には、実は同意します。
なぜなら、「日本人とはなにか」というアイデンティティを確立するうえで、天皇は切り離して語ることのできない存在であると考えるからです。
大震災が起きたときのことを思い返していただきたいのです。天皇がメディアを通して姿を見せ、
「大災害で多くの人の命が失われてしまったことに胸を痛めている」
と述べる。
このことは、とても大切なことだと思うのです。
日本人は、たとえそれまでいがみ合う関係の相手であったとしても、傷ついた人々を前にしては、理屈を抜きにして手を差し伸べる。そんな民族だと私は思っています。
天皇はそんな日本人のロールモデルたりえていることは認めざるを得ないのです。
もし天皇がいなくなれば、多くの人が「日本人とはなにか」という精神的なコア(核)を失ってしまうことでしょう。「国境や民族にこだわるのは古い。グローバルに生きるのがこれからの理想的な生き方だ」という人は、そうすればいいのです。
天皇と「コスパ」
さらにいえば、このような観点から天皇を語ること自体不敬だと感じられる方もおられることでしょうが、現代風にいえば「天皇はとてもコスパが良い存在である」ということも言えるのです。
どのような外国の賓客であれ、コロコロ変わり権威のかけらもない日本の総理大臣よりも、天皇が会ってくれることを大変に喜ぶといいます。君主制が存続している国なら、1500年以上も続いている王朝の末裔である天皇が直接会ってくれたという事実は、彼ら彼女らが一生忘れることができないほどの感動をよびおこし、記憶に深く刻み込んで帰国することでしょう。
高須氏も述べられていましたが、現在の天皇は「贅沢三昧の貴族」といったイメージとは程遠い生活をされていると思います。天皇は一般の国民に生来与えられている「居住地や職業を自由に選ぶ権利」といった権利も事実上、制限された存在であることも忘れてはいけないでしょう。
天皇がいるおかげで「優しい社会」が実現している
日本は世界から「立憲君主制」の国であるとみなされています。英語でいうと、”constitutional monarchy” となります。
つまりは「君主がいる国」ということです。
もちろん、日本国憲法においてはすべての国民が法の下に平等であることが約束され、貴族や階級は存在しないことになっています。
第十四条
1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
しかし、日本人なら誰でもわかっているように、天皇とわれわれ庶民の間には、当たり前のこととして階級の違いが存在します。これを「身分」といってもいいでしょう。食べ物を買うことができずに天皇が餓死するとか、病気になったが治療費を工面できず天皇が貧困の中で病死するといったことは起こりえません。
さらにいえば、私がとてつもない大富豪になり、国のために膨大な額のお金を投資したとしても、政治家や文化人として巨大な功績を国にもたらしたとしても、私は天皇になることはできません。
もう少し現実的な例を上げると、ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正氏や、ソフトバンクの孫正義氏などは莫大な所得を得ている大富豪ですが、そうした人たちがどれだけ有能さを示して国益に寄与しようとも、天皇になることは絶対にできません。
つまりそれが、現在の日本のヒエラルキーにおけるキャップ(上限,”cap”)ということになります。
上限のない社会は実は残酷である
これは私の私見ですが、上限のない社会、個人の能力と努力でいくらでも出世することができる社会(それが建前であったとしても)というのは、一見、誰でも社会的な成功を夢見ることができる理想的な社会のように思えます。
しかし、実際にはどうでしょうか。「超」競争社会のアメリカはもちろんのこと、ヨーロッパにおいても共和制を敷く国々の多くでは、非常に残酷な現実が展開されています。それは、人生におけるすべての結果が個人の責任に帰されてしまう社会だということです。要するに、日本でも猛威を振るっている「自己責任論」です。
能力主義に基づく自己責任論が蔓延すると、人々から謙虚さ・思いやりが失われ、分断が加速します。その結果、民主制も成立しなくなる。これがどれほど破滅的な状況であるかは、以下のマイケル・サンデル氏の著書をご一読ください。
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」
マイケル・サンデル著
私は、日本において天皇という、個人の能力や努力では絶対に超えることができない「上限」があることは、結果として「優しい社会」の実現に寄与していると思うのです。
誤解していただきたくないのですが、私は階級制を肯定しません。私は、人類が克服できていないものが3つあると考えています。それは、
- 飢餓
- 戦争
- 階級
です。
いずれも私が生きているうちに克服されることはないでしょう。
ですが、私は人類があらゆる階級を必要としなくなる日を心待ちにしていますし、遠い未来、必ず人類は階級を克服できると信じています。
しかし、今のところ人類には、階級は必要なのでしょう。人類が階級を生み出したのは、果てしない殺し合いによる絶滅を避けるためだったと私は考えています。
- 「けじめ」
- 「分別」
- 「身分」
- 「身の程を知る」
このような「上限」なしには健やかに平和に生きることができない。人間はまだまだ不完全な存在といえます。
天皇がいなくなったり、その権威が地に落ちたりするようなことになれば、日本も諸外国のような殺伐とした、今よりも遥かに階級化が進んだ社会になるでしょう。
富裕層は武装した警備員が守る高い塀とゲートで囲われた「ゲーテッド・コミュニティ」で暮らしている。しかし、いつその安全な場所にいる資格を失うか、毎日怯えて暮らしている。外では毎日のように貧困層による暴動が起こり多くの人が命を落としている。街では教育を受けられない子どもたちが売春や児童労働で日々の糧を稼いでいる。
そのような社会を誰が望むというのでしょうか。
以上です。とりとめのない意見となりましたが、私の天皇への思いをまとめました。
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